とくしま建物再発見F「吹の地神さん斎場

神秘的な空間 青石が演出

徳島新聞(2000年10月28日)より

 

 地神(じじん)さんは阿波農民の神様である。江戸後期、藩主蜂須賀公の命によって村々に地神碑(ひ)が建てられた。

3年前の夏、三好郡井川町の吹(ふき)という集落に立ち入った時、建物を配した珍しい地神さんと出合った。碑そのものは通常の五角柱だったが、手前に石の建築が造られていた。こんな地神さんを見るのは初めてだった。しかも石積みの建築である。素朴な造りから、氏子たちの普請(ふしん)であることはすぐに分かったが、何のための空間かが理解できなかった。拝殿のようにも見えるし、また雨宿りの空間のようにも見える。北の広場から見ると、建物奥の少し盛り上がったところに地神碑がまつられている。近づくと、突き当たりの壁の中央に小さな穴が開けられ、光が射し込んでいた。その穴から地神碑へと、石の階段が設けられている。建物の中ほどまで踏み入ると、ほの暗い石積みの内部から、後光に浮かぶ地神碑が見えてきた。何と見事な演出であろうか。北から拝むという地神さんの特徴あるアプローチを巧みに生かした石の間はとても神秘的だった。この建物は祭事を行う斎場として建てられたものであろうが、氏子たちの崇拝心が、用を超えて、感性あふれる空間へと高めていた。

  頭に二つの建築が思い浮かぶ。兵庫県小野市の浄土寺浄土堂(俊乗房重源が中興・1192年)と淡路島の本福寺水御堂(安藤忠雄設計・1991年)である。この新旧二つの建築は東向きに仏像を安置し、西面の大きな開口から後光を取り入れる仕掛けになっている。こんな片田舎に、これらの名建築とまったく同じ手法が取り入れられていたのだ。

 石積みの表情もよかった。平たく割れる青石を集め運び、積み上げていく。氏子たちの共同作業が石に魂を注ぎ込んでいく。屋根を受ける構造材は、昭和の終わりに、木材から鉄骨にやり替えられているが、その上には大きな青石が二枚置かれ、素朴な屋根を形造っていた。「こんな重いものを当時どのようにして」と、つい考え込んでしまった。

 今世紀の建築が切り捨ててきたものは何だったのか。その一つが土着性や地域性ではなかったのか。便利なものに満たされた生活の中で、私たちは感性や忍耐を奪われ、共同体意識をもなくしてきた。「20世紀の忘れ物がここにありますよ」と、この小さな石の斎場がささやいたような気がした。 (富田眞二)

 

●メモ「吹の地神さん斎場」

所在地は三好郡井川町井内東字吹。江戸末期から明治にかけて建てられたと推測される。地神碑は氏子中が1839(天保10)年に建立。外壁は3面青石積み、屋根は鉄骨造に青石置き。内部の寸法は間口2.10m、奥行き2.40m鉄骨の梁下まで1.60m。扁平な自然石の緑泥片岩(通称阿波の青石)の乱積み。

 

●地神さん 【引用文献・徳島県百科事典(徳島新聞社刊)】

1790(寛政2)年、徳島藩主・蜂須賀冶昭公は各集落に地神碑を建てさせ、春秋の社日(春分、秋分に最も近い戊=つちのえ=の日)に地神祭を行うようにとお触れを出した。それ以後、農家の人々は「地神さん」と親しみを込めて呼び、土の神、作物の神としてあがめた。春には作物の生育を祈り、秋には収穫のお礼参りをする。ご神体は五角柱をしており、和泉砂岩で造られたものが多い。五面には農耕にまつわる五神、天照大神、大己貴命、少彦名命、埴安媛命、倉稲魂命の名が刻まれ、正面(北面)に天照大神を配する。

 

 ▲北の広場から見る地神さんの斎場。もやがかかる木立の中、

幻想的、神秘的な雰囲気が漂う。

▲斎場の中から後光に浮かぶ地神碑を拝む。石が醸し出す

神秘的な空間が、氏子たちの崇拝心を高める。

▲素朴で力強い斎場の石積み。青石を集め運び積み上げた氏子たちの

魂が注ぎ込まれている。

※写真はすべて末澤弘太(徳島新聞社写真部)

 

▲斎場の断面イメージ図

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