とくしま建物再発見K「割石家住宅

五感はぐくむ仕掛け

徳島新聞(2001年3月24日)より

 

  阿波町に入り、大久保谷川を越えた県道・鳴門池田線のすぐ南手に、四国山脈を背に甍(いらか)の屋根が幾重にも重なり合った懐かしい家並みが見えてくる。かつて造り酒屋を営んでいた割石家の住宅と酒蔵群である。この酒蔵は若いアーティストたちの個展などに度々開放されている。彫刻家や染色家、現代アート作家など創作活動をする者にとって、ここは創造力をかき立ててくれる魅惑的な異趣空間なのだ。

 今回紹介するのは、その横に建つ母屋。百年も前のこの建物は今も建築当時の初々しさを持続し、荒廃した現代社会や現代住宅への警鐘を鳴らし続けているように見える。 17歳の犯罪、実親による幼児虐待。毎日のように起こる悲しい事件は、目的を失った現代人を端的に表しているが、その因がどこにあるのかをわかり易く伝えてくれるものは何もない。学校教育の問題。いや、親のしつけ方の問題などと責任を押し付け合っているようだが、設計を仕事とする私には、今造る住宅にもその一因があるように思えるのだ。

この家に来ると、物質的に豊かになり過ぎて情緒や忍耐を忘れてしまったことを痛切に感じ、「こころの豊かさ」とは何なのかが見えてくる。「生活の中に自然をどう取り込むのか」「玄関へのアプローチとは」「来客のもてなしとは」「子供の感性をはぐくむ空間とは」など、設計のヒントが至る所に散りばめられている。

 2階の東南にある15帖(じょう)の広間は代々子供部屋として使われてきた。極端に抑えられた天井高さは何と1.8mしかない。茶室のような狭い部屋なら考えられるが、この部屋に低い天井は窮屈である。それを補う仕掛けが連続窓で、外部に面した東南の二面は壁がなく、すべて開放されている。おのずと外に目がいき、草木たちと対話する。甍越しに見る遠くの山々、目を落とすと中庭や表の庭がいつもある。四季を通して自然の優しさや怖さを知り、子供は大人になっていく。技術的には何でもできる現代住宅が切り捨ててきたものは、思いやりや優しさをはぐくむ家作りではなかったのか。この建築に十余年の歳月を注いだ割石家の初代易治郎氏(1842〜1912)と地元岡地出身の大工、新藤禎次(別名禎蔵)棟梁の熱いメッセージに耳を傾けたい。

 

今造られる住宅は物質的な欲求をダイレクトに満たしてくれる。機能的な間取りや充実した設備に包まれた生活は、幸せそのものを勝ち得たかのようにみえる。しかし、そこから生まれるものは、なぜかまた不平や不満なのだ。便利な間取りは人に思いやりや忍耐を忘れさせ、至たれり尽くせりの設備は、知らずしらずの間に人の感性をむしばんでいく。人の一生に大きな影響を及ぼす住まい。この割石家住宅には、私たちが捨ててきたいくつもの幸せへのかぎが隠されている。

 

 初代易治郎氏が新藤禎次棟梁の協力を得て造り上げた感性あふれる住まいから、五感をはぐくむ仕掛けを読み取り、これからの住まいを考えてみたい。 (富田眞二)

 

●メモ「割石家住宅」

阿波郡阿波町元町24-1。割石總一郎氏所有。

建築概要/1888(明治21)年に乾蔵から着工。ほぼ同時期に母屋造営に取りかかり、上棟は1891年4月、1894年2月には未完の母屋に入居する。母屋の完成を見たのは4年後の1898(明治31)年3月である。寝床は1889年に着工。屋敷全体の完成は1901年頃である。なお、乾蔵と離れは他家より買い取り移築したものである。住宅は母屋、長屋門、離れ、乾蔵、西蔵、寝床、小座敷、帳場からなる。

 

▲巽(南東)の門より中庭を見る。右奥に見える2階建ての建物が母屋。建物の水平や垂直ライン

の幾何学的な造形の中に対峙するように配された自然石の構成が巧みである。

 

▲代々子供部屋に使われてきた母屋2階の15帖の広間。1.8mと極端に抑えられた

天井高さと外部に面した2面すべてがガラス窓の大胆な構成は、創造力を育む仕

掛けのように思える。

▲中庭より母屋の玄関を見る。正面の「玄関の間」は

部屋中央に床(とこ)を配置した大胆な構成で来客を

もてなす。

※写真はすべて末澤弘太(徳島新聞社写真部)


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