とくしま建物再発見P「喫茶・大菩薩峠」
ロマンとエネルギー凝縮
徳島新聞(2001年8月25日)より
徳島から国道55号を南に走り、橘湾を通り過ぎるとすぐ右手に、ツタの絡むレンガ造りの喫茶店が目に飛び込んでくる。欧州の城郭を思わせるこの建物の名は「大菩薩峠」、オーナーである島利喜太(しま・りきた)さん自らが築き上げたものだ。
島さんは20歳を過ぎた頃から、家業である農業に従事する傍ら、5、6年を掛け、北から南へと日本一周の旅に出ている。そこで、夢に拍車を駆かけることになる大菩薩峠(山梨県小菅村にある。中里介山の未完の長編小説で全国に名が知られた)と運命的な出合いをする。この険しい峠の畝(うね)が、彼の目にどのように映ったのかは知るすべもないが、「自分の山に万里の長城を築きたい」という思いに強く駆られる。コーヒー好きで、人にもうまいコーヒーを飲んでもらいたいと願う若い頭の中には、店の名は「万里の長城」か「大菩薩峠」しかなかったという。
しかし、工事は苦難との戦いになった。当時、香川県牟礼町にレンガ工場はあったものの、大手企業優先で個人に分けてくれるレンガはなかなか焼いてはくれなかった。それならばと裏山に窯を造り、自らも焼いた。当初、数人いた左官職人も彼の熱気に圧倒されたのか、一人また一人と姿を消し、10数万個に及ぶレンガのほとんどは彼一人で敷き詰め、また積み上げていくことになる。着工から5年目の1971(昭和46)年秋、大菩薩峠は待望の産声を上げた。
戦後56年が過ぎ、建築の施工システムは大きく様変わりした。村人総出で築いた茅葺き屋根や自らが参加して造る住宅は過去のものとなり、お金さえ出せば理想の家を手にすることができるようになった。阪神大震災の不幸に見舞われた時、被災地の多くの人々は政府やボランティアの救済を待つしかなすすべがなかったが、死者10万人を数えた1923(大正12)年の関東大震災の時は、被災から数日後には焼き野原に被災者たちが造るバラックの建築が建ち始めたという。
施工者にすべてを任せる建築請負システムが、戦後、どれほど住人の手足を奪っていったことか。わが家の建築に自ら汗を流すことの大切さを、また生きるということの意味を、この大菩薩峠は語っているように思えてならない。
オープンからことしでちょうど30年を数えるが、いまだ未完の建築である。当初、彼が目指した「レンガの長城」は、「木」そして「石」へと様相を変えてきた。近年、増築されたトイレは木で造られ、敷地奥の裏山には不思議な石の空間が築かれようとしている。かつての小学校舎の基礎石や水門に使われていた石柱、兵庫県赤穂にあった耐火レンガ工場の引き臼石などを集め、新たな息吹を注ぎ込む。
「人生はロマンとエネルギー」と語る彼の頭の中には、もうすでにこの空間に「石の建築」が築かれていた。入口の扉は無垢の一枚岩であるという。オープン当初から温めてきた「石の扉」に人生のすべてが凝縮される。その日がロマンの終焉になるのか、それは彼にしかわからない。(富田眞二)
●メモ「喫茶・大菩薩峠」
阿南市福井町土井ヶ崎115-10。 島利喜太(しま・りきた)氏 設計・施主。
建築概要/1966(昭和41)年ごろより着手し、1971(同46)年10月10日オープンする。主棟は鉄骨造にレンガ積みの建物で、10数年前に増築された工作室やブリッジの回廊、6年前に造られたトイレは木造の建物である。オープン後も手を加え続け、いまだ完成を見ていない。現在、敷地奥の裏山に「石の空間」を建設中であり、その一角に自邸で使っていた基礎石を利用しての「石の建築」を計画している。店内を飾るテーブルやイス、カウンターなどの調度品もすべて島氏自身の手作りである。
▲ブリッジの回廊で囲われた中庭は、床壁ともレンガで埋め尽くされている。牟礼町や
淡路島のレンガの中に手作りレンガが入り交じり、奥行きのある表情を見せる。
▲手作りの温かさとともに、造形へのこだわりが強く感じら
れる喫茶「大菩薩峠」の店舗内部。国道からも見える丸窓に
は、農作業で使っていた大八車の車輪がはめ込まれている。
▲裏山に建設中の石の空間。乱立する柱は地元で水門に使わ
れていたものだが、島さんの息がかかると新たな生命を得る。
奥に見えるのは木造の工作室。
※写真はすべて末澤弘太(徳島新聞社写真部)
■その後の「喫茶・大菩薩峠」はこちら↓
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